型にはめられるのはなんか嫌。
いやいや、なんか厨二病みたいな始まりになってしまって恥ずかしいな。
でも、嫌じゃないですか?
女なんだからこう、男なんだからこうみたいな型。それに限らず、「あなたは〇〇だから●●」みたいな型。
人の話や事情も聞かずに誰かの方程式にはめられて、見当違いな答えを押しつけられるのが嫌なんです。
それ、私の話聞いてないやん、私のことどうでもいいのかってなる。
これを拗らせたのはホントに中2くらいで、嫌なことがあってイライラしてたら、親に「反抗期だからしょうがない」みたいにこちらの言い分何も聞かず、言われたことから始まる。
反抗期だからとか、型を押し付けたらそこに私はいなくなるよなと思う。
だから、人の話はちゃんと聴きたいと思ってる。その人の思いをちゃんと聴きたい。
それで本題。
この型にはめる考え方って結構危険では?と思った話。
最近友人との会話で気になったことでもある。
仕事がつらいという友人Aに友人Bが、「なんでもない時にいきなり訳もなく泣き出したりしなきゃまだ大丈夫だよー」と言って話を遮って自分の経験談をアドバイスし始めたこと。
多分悪気は全くないし、友人Bの中ではそれが正解なんだと思うけど。
仕事ツライマウントではないと思いたい。
いや待て、ちょっと突っ込ませて。
なんでもない時に泣き出すことももちろんストレスの症状だけど、泣き出さなきゃ辛くない訳じゃないぞ。
大丈夫かどうかの基準てそれだけなの?
もしかしたらもっと重大なSOSだったかもしれないのに?
自分が大丈夫だったことなら他人も大丈夫なの?自分の正解は他人の正解?
ちょっとえーーーー、と思ってしまったよ。
ストレスにしろ何にしろ、症状って相対的なもので、全員に絶対あるものではないはず。
症状がなくても検査したらもう倒れてもおかしくないこともあるし、その逆もある。
自分の経験は確かに大事だけど、それが相手に当てはまるかっていうのはちょっと違うと思う。忘れがちだけど別の人間だしね。
このての型は偏見と呼ばれていて、ある意味超便利なものさしとして使える。
使えるけど…。
偏見は偏見なんだよな。偏った見方。
友人A氏ホントは大丈夫じゃないのに、大丈夫なことにされただけかもしれない。
後日別で連絡した。
この友人B、いい人なんだ。
でも自分の正義が若干自分寄り。悪気がないのは分かる。だから何も言えなかったけど。
なにも言えなかったけど…。うーん…。
私も気をつけよう。私にも多分ある。自分寄りの考え方の型。
自分は自分だが、他人は他人。
どんなに親しくとも、自分の型は共有できないことがある。辛い思いをしているときは特に。
押し付けられて嫌なことは押し付けない。
こっちはちゃんと弁えたい。